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実践の環境倫理学

実践の環境倫理学
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~肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ~
「環境に対する人間中心的態度を改め、未来世代に対する責任を果たすべきである」。その前提から、個々人が日々実践できる実例のいくつかを取り上げ、ライフタイルの見直しを提案した応用倫理学の教科書ともいえる1冊!

著者
田上 孝一
出版年月
2006年8月15日
ISBN
4-7888-0605-3
販売価格
本体2,800円+税
サイズ
A5判
製本
並製 
頁数
199ページ
備考

電子書籍版があります。

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著者紹介

田上 孝一(たがみ・こういち)
1967年東京生まれ。1989年法政大学文学部哲学科卒業。1991年立正大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了。2000年博士(文学・立正大学)。
現在は、立正大学非常勤講師。専攻は、哲学・倫理学。
主な著書に、『初期マルクスの疎外論-疎外論超克説批判』(時潮社)、『21世紀社会主義への挑戦』(共著、社会評論社)、『現代軌範理論入門-ポスト・リベラリズムの新展開』(共著・ナカニシヤ出版)などがある。

書評の紹介

ロゴス社 もう一つの世界へNo6 2006年12月号
 「わかっちゃいるけど、やめられない」
おそらく評者を含めた多くの人が一度は抱く感覚であろう。しかし果たして、それを背後にある関係から本当にわかって、あるいはわかろうとした上で、やめられないのであろうか。

たとえばこんなライフスタイル。タバコをふかしながらハンバーガーをかじり、どこに行くにも車を使う。わりとありふれた光景だ。しかしながら、その行為の意味は実に冷厳である。喫煙は「緩慢な自殺」であり、タバコ煙をアレルゲンとするアレルギー患者にとっては「ナイフを振り回しているのと同じ」。肉を食べるということは、これまで生きてきた動物が殺害され、時としてその命は、単に人間の味覚への嗜好を満たすための引き換えとなる。車が吐き出す二酸化炭素によって地球環境が破壊されるのはもはや周知の事実である。わかっていてなおそうするのならば、体に染み付いた「生活習慣」がそうさせるのか。さらに始末が悪いのは、「動物を愛している」と語る人々がハムサンドを頬張り、生命倫理学を教える者が講義の合間にタバコをふかしたりする光景だ。矛盾はないのか。

 

さて、本書は応用倫理学の教科書を目指して執筆され、その特徴は、こうした肉食・タバコ・クルマといった身近にして重要な問題を、生命・環境倫理学観点から同時に論じている点である。哲学・倫理学に関する書というと、なにやら難解で抽象的な用語の羅列が多く結局のところ何が言いたいのかが判然としないものがままあるが、本書はそういったタイプの書とは明らかに一線を画している。

 

いわく、「倫理学とは人生そのものの基本方針を問う学問」。著者は「この学問に含まれる知識が単なる知識ではなく、常に実践に結び付き、実践の根拠を指し示すような知識でなければならない」との認識のもと、なかんずく先述した問題群を批判する倫理学的根拠を明示し、もうひとつの持続可能なライフスタイルの世界のあり方を対置する。そして、読者は問われる。他ならぬ自分自身のライフスタイルは倫理的に望ましいのか、と。

 

また、本書が類書と際立って異なるのは、「ベジタリアンの倫理」(四章)を本格的に論じている点だ。ベジタリアンというと、野菜しか食べないかのような菜食主義者と通常訳される。だが、語源的には「活発に生きるために動物食を避ける人」という意味であり、ベジタリアニズムによって追求される健康の射程は「地球環境にまで拡張されうる」という。本章は、本書の中心頁に据えられ、大きな魅力となっている。

 

それにしても、この爽快な読後感は何故か。かくいう評者は肉を食ってはタバコをふかし、クルマなど気にも留めたことがなかった。にも拘らず、本書に説教くささや感情的反発の余地はほとんどない。それはおそらく、事実判断と価値判断の徹底した区分が本書では基底をなしているため、その一呼吸も二呼吸もおいた論述が読み手の理性に直接訴えてくるからかもしれない。あるいは、著者が照らそうとする松明に、個々人の実践如何によっては、火がともることの現実性を確信したからか。

 

<生活が意識を規定する>。自己の生と世界の間に意味を求める多くの人に本書を勧める。
米田祐介(立正大学大学院生)

 

 

東京唯物論研究会 唯物論 No80 2006年12月号

 

 本書のタイトルにある実践という言葉には、たんなる知識としての倫理学の検討を超えて、読者に対して実践を求 めるという明確で強い意味が込められている。すなわち、「本書は、読者に対して、ライフスタイルの見直しを求めているのである。本書が一人でも多くの読者に、現行の支配的ライフスタイルに抗するコミットメントを促すことができるとすれば、著者としては望外の喜びである」(5頁)。これがまず本書の大きな特徴であり、標的として取 り上げられるライフスタイ~の具体的な内容は、サブタイトルにあげられている肉食、タバコ、クルマである。
このうちタバコつまり喫煙の害悪や、車社会の問題については、多くの人に間邁祝され議論されるようになって久 しい。むろん問題視されることと、それが現実に解決されることとの間には重大な違いがあるのだが、地球温暖化を 防止するには現実の対策は程遠いとはいえ、「どうにかしなければならない」という意識はほぼ常識となっており、 国際的な協力関係も紆余曲折あるなかともかく進められているし、私見では産業界もそれなりの取り組みを継続しているといえる。これらと比較した場合、BSEや鳥インフルエンザなどは大きな問題となっても、肉食自体を間遭祝する議論はことに日本では非常に不十分な段階にとどまっているといわざるをえず、応用倫理学の分野においても同 様のようである。このような点からみて、本書の二つ目の特色は、肉食に反対する思想としてのベジクリアニズムを倫理学上のテーマとして積極的に取り上げたことにあるといってよかろう。
なお、評者はマルクス経済学とその周辺を主に研究してきた者であって、倫理学や本書で扱われる問題について大きな関心を抱いており、生活においてなるべく肉食を避けるなど心がけてはいるが、それらに関する専門家とはいえない。本書は一般読者向けに書かれたという性格も強く持っており、その点では評者は適しているかもしれないのだが、 いずれにしてもこのような立場から述べたものであることをあらかじめ お断りしたい。
第1章「倫理学の考え方」では、初学者向けの基礎知識として、まず事実と価値の問題が簡潔に検討される。事実 と価値とは根本的に区別されるものであること、そして双方における相対主義的態度が不当なものとして退けられる。さらに功利主義と義務論について解説され、それらのいわば歩み寄りの形態である選好功利主義と混合義務論にふれられている。
著者の立場は、価値は事実とは異なり厳密に真ではありえないというものであり(25頁)、丁・価値には、人為的な操作が原理的に不可能であるという意味での、真正な意味での絶対性はない」 (34頁) というものである。それにもかかわらず、文化相対主義など価値に関する相対主義に反対し、価値の絶対性を説く理由は、「価値に対する相対主義的態度は、明確な価値判断を必要としている現実に対する逃避という、否定的な結果しかもたらさない」 (34頁) という実利的な理由、実践的な視点からの要請である。この視点は、第2部において現実の諸問題を論ずる際の基本 となっている。
第2章「人間中心主義批判の真意」では、はじめにキリスト教における典型的な人間中心主義が検討される。人間以外の動植物や環境は、まったく人間のためだけに存在するというキリスト教主流の考え方は、そのまま現代社会における人間中心主義を表しているといってよい。しかしキリスト教の中にもこのような考えに与しない潮流は存在し、また聖書の解釈として、肉食をむしろ制限し禁止していると読める部分があることが紹介される。紙幅の都合も ありごく簡単にしかこの聖書解釈をめぐる対立は論じられていないが、評者には興味深かった。
第2章では続けて、人間中心主義を批判する思想として、土地倫理とディープ・エコロジーが取り上げられている。これらの潮流は、人間とそれ以外の存在をまったく同列のものとして扱おうとすることを特徴とするといってよいであろう。しかし、このような主張を徹底すれば、人間の生命を手段として扱うような事態にならざるをえず、そうではないとすれば、程度の差はあれ人間を他の存在とは区別されるものとして扱わざるをえない。したがってこのような人間中心主義批判は著者がそのまま採用するところではなく、著者の積極的な主張は、「人間は、(環境に重大な影響をおよぼすという意味での評者) 自然の中心であるという事実を踏まえて、だからこそむしろ価値判断においては、人間は自然の中で、他の要素と質的に断絶した、最も尊いものでは有り得ないという非人間中心的態度が要請される」(78頁)ということになる。
ここでいう著者の非人間中心(主義)的態度とは、人間を完全にそれ以外の自然と同列に扱うものではない。そのことは第4章で、救命ボートに子供と動物のどちらを乗せるかという選択の問題を扱う際にも述べられている。すなわち、「動物の権利が人間と同じなら、一人の子供と一匹のコンパニオン動物の仔の選択は、二人の子供の間の選択と原理的に同じになるはずである。しかし私は、救命ボートに載せるのは常に必ず人間の子供でなければならないということに、一片の疑問も持ち得ないのである。それどころか、たとえ一人の子供と引き換えに失われるのが百匹の子犬の命であっても、子供の方を選択するのが正しいとしか思えない。だから私は人間には固有の価値を認めているものの、動物には認めていないということなりそうである。そうすると私は、私自身の主観的意図とは別に、実は種差別主義者に過ぎないのかもしれない。そうであっても、私としては種差別主義の汚名を甘んじて受ける他はな
いのである」。
著者のこのような穏やかな非人間中心主義(または穏やかな人間中心主拳には基本的に同意するが、評者はきわめて素朴な直感として、もう少し別の考え方を採りたいと思っている。すなわち、人間には他者に共感する能力がもともと備わっている(あるいは、進化の過程でそれを身につけてきた)のであり、そして共感する対象の範囲はしばしば人間という種を超えて広がる。著者は、動物が苦痛を感じているかどうかという問遭に際して、人がコンパニオン動物を飼うことを楽しいと感じるのは、その動物が人間と同じょうな感情を持ち、たとえば喜んだりすることを確信しているからだと述べている(118-119頁)。これは、動物とも難なく共感してしまう人間の本性をも示しているといってよいだろう。動物をテーマにした映画は作られ続けているし、矢の突き刺さった鴨(矢ガモ)の映像を見れば痛々しいと感じることの方が普通である。肉食をやめるためには、このような共感の範囲を食肉にされている動物にまで広げるだけでよい。
苦痛の感覚や人間と共通する感情を持つかどうか実際わからない生物も存在するが、以上のように考えれば、人間中心主義という形式はそのままで、現在のような肉食に反対することや、自然環境を維持する思想を支持することは十分可能と思われる。人間中心主義の内容が、種を超えて共感する能力を持つ人間を中心にして、世界を再構成するものになるのである。ただし共感の程度には差があり、人間と人間以外を比較すれば、人間に対して強い共感が抱かれるであろう。なお、D・ヒユームやアダム・スミスなどが共感を考察した過去の思想家として有名であり、ヒユームはわずかながら動物の感情について書き残している。また、ペンサムは動物の感じる苦痛について考察している。マルクスについていえば、『経済学・哲学草稿』における「類的存在」として人間の強調などから考えても、とくに種を超えた共感という視角には乏しいのではないかと思われる。第3章「未来世代に対する責任」では、著者は、我々は未来世代に地球環境を最善の形で引き渡す義務があるとするが、「本当にそんな義務があるのか」という問いや、「自分のあずかり知らぬ未来世代のことなど、建前としてはともかく本心から配慮するなどというのは偽善だ」といった問いに対して答える形で、いくつかの考え方を紹介している。詳細は省略するが、評者としてはここに挙げられたものの他に、生物は自分や自分に近い遺伝子を残すよう本能的に行動するという進化論的事実から、未来世代への責任、あるいは未来世代の境遇に共感せざるをえない人間の本性をある程度引き出すことができるのではないかと考えている。また、人間はそもそも他者に対して共感する能力があるのだとすれば、その共感の対象が現在の世代に限られるという強い必然性はないだろう。
第4章「ベジタリアンの倫理」では、肉食に反対する思想としてのベジタリアニズムが詳細に検討され、ベジクリアニズムに反対する主張が論駁される。肉食や、とくに現在の工場畜産に反対する論拠には、主として不必要な動物の苦痛を避けるべきだという苦痛の観点からのものと、動物には固有の権利があるという動物の権利論からのもの、さらに肉食はカロリー摂取の面からいって無駄が多く、地球環境を破壊する度合いが大きいという環境問題からの視点がある。卵、乳製品、魚介類などに対する考え方の違いにより、ベジタリアンはいくつかに分類することができる。著者の立場は、なるべく動物性食品を取らないようにしていく「ビーガン志向的食生活」が最も望ましいというものである。
第5章「喫煙の倫理」では、喫煙の習慣がまったくの害悪であり何のメリットもないことが確認され、未成年者を喫煙者にさせていく状況が鋭く批判される。第6章「クルマの倫理」では、クルマを擁護する主張に正当性がないことが明らかにされ、資源環境問題や他の観点からみてクルマは基本的に害悪であることと、クルマに替わる交通手段としての自転車の意義が述べられる。そして、必要最小限のクルマと公共交通機関、自転車の組み合わせがオルタナティブとして対置される。一路章では、著者がインドを訪れ

 

たときの体験と、絶村的貧困をなくす義務についてふれられている。

 

著者が取り上げた肉食、タバコ、クルマのうち、車社会からの脱皮は最も社会全体での取り組みが必要とされ、その意味で解決のための難易度の高い問題のように評者は感じる。それと比較して肉食とタバコの場合には、社会環境のサポートは必要ではあるが、むしろ個人の心がけ、意思の持ち方に依拠している割合が大きいであろう。そして本音のメッセージとは、倫理学はたんなる知識ではなく、実践のための倫理学であるべきというものであった。したがって読者には、このような強いメッセージ性を持った本書を読み終えたときに、著者の主張に同意したならばそれに沿った実践が求められ、同意しないときにはなぜ同意しないのかその根拠を明らかにする義務があるといえよう。
中村宗之

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